偽善

2005年9月14日 アツク語ります
偽善ってのは、偽りの善、つまり、良いことではない?
ボランティアってなんじゃらほい?
そんな疑問をずっと持ち続けて来た。

そして、今日、友達の友達繋がりでボランティア初参加。
「障害を持つ子供と遊ぶ」
それは、オレにとって「障害」といわれるものの理解を深めることになると確信したからだ。

自閉症
字のごとく、自分を閉じ込める病気なんだろうか?個々の様々な症状がでるんだろう。

部屋の隅に座り込んでしまう子。
とにかく、走り回ってて、ジッとしてられない子。
周りになじめない子。

どの子も言葉数が少ない。
自己表現の形も様々だ。

今回、オレが共感したのは、ジッとしてられない子と隅っこでいじけてるように見えてしまう子。オレ自身、いじけ癖があった。自分を見て欲しい。そんな表現が皆と離れて違うことをすることだったりするんだろう。
その気持ちよくわかる。
ジッとしている。言われたことをやる。グループ行動。
オレ、どれも苦手だ!周りからとにかく離れてみる。自分がやりたいようにやってはいるものの、やはり皆のやっていることは気になって仕方が無い。「本当は・・・できることなら共有したい。」
どの子もそんな気持ちがあるように見えた。

甘えん坊が多い。
自己表現の仕方が様々だ。
自分、個性を持っている。
今日会った子たちは、自分っていう個をまず受け入れてもらえる方法を学ぶ必要がある。それが社会に適応していく上で必要不可欠なんだということを理解した。

最後に、オレの腕をつまみ、噛み付く子にオレは、叱るのではなく、噛ませる事にした。うなり声しか上げない、一瞬だけ合間見せる笑顔の他に、やっとオレに何か訴えたい想いが、オレの腕をつねり、噛むって言う行為になったんだと思ったからだ。

「どうした?」頭をなでながら聞いてやったら、
その子は、オレの腕をつねり、噛むことを繰り返した。

こっちの反応を窺いながら、オレの様子を窺いながら、噛む。
オレは、それを「帰りたくない」と受け取った。

本当は、解ってるんだ。
人をつねり、噛むという行為が相手を傷つけることだって。

だから、おそらく、オレの肉を引きちぎるようなほど強くは噛まない。その子にとってはメッセージの伝達方法のひとつなんだろう。そう考えたら今日初めて逢ったその子にほんの少し心を開いてもらえたような気がして、オレは、噛まれるという行為を嬉しく感じた。
人をつねる。噛む。という行動を許すべきではないのだろうけど、オレは、その子のメッセージとして受け入れるのが先決であるように感じた。自閉なら自開にするのが一番大切なことで、あれこれ教えるのは後回し。

自分は専門家でもない。知識もあまりない。
人、一個の個人として、理解しあって、認め合って、好き好かれの関係を作れればいい。そのあとに教えるということを考えればいい。それじゃぁ駄目ですか?


人間好きのオレはやはり好かれたいし、好きたい。やっぱり、好きな人には、役立ちたいし、役に立ってほしい。持ちつ持たれつの関係が友達だったり、恋人だったり、家族だったり、ボランティア内で出会った関係でも。

ボランティア=役に立つ、手助けをする、手伝う=偽善!? 

偽善、自己満足、なんか人のためにとことん尽くしきってる人をオレは偽善という言葉が当てはまるようには思えない。

母親がいる。父親がいる。そこに障害児がいる。その子を愛することを偽善とは思わないでしょう?

親戚でも友達でも障害児を愛しちゃえたらそれはきっと偽善でなくなるんじゃない?

オレに子供ができたとき、妻のおなかの中には障害を持つ子と解ったとき、オレはどうするのだろう?
考えても考えても、そのときにならないと結論は出せない。
けれど、まず少しの理解が必要だとオレは考える。
そんなキッカケは自分自ら創らないとなかなか無いのが現状だ。

ボランティアへの偏見はきっとある。
人の存在価値はそれぞれで、人助けをすることに自分の存在価値を見出した人がいて、それが偽善と呼ばれるのかもしれないけど、オレはありだと思う。実際に、それを必要としてる人がいて、助けられている人がいるから。

中途半端に偽善ぶる人がいる。

自分自身がそうなのかどうかは、正直、解らない。

けど、オレは、断固、人間が好きだ!

人を手助けできるくらいの財力・器・信念・思いやり・を持って、思いっきり偽善をしたいと思う。
オレの存在価値は、オレが決めていいのだから、自分がやりたいようにやってみようと思う。それが他人には偽善と映ろうともね。
きっと、解ってくれる人がいる。
 
オレは、人に好かれることに自分の存在価値を感じる。  

コメント