子から父へ力を与えるってコト。
つまりは、MOTIVATION。
やる気配布。
俺は幼いながらも知っていた。
そうだなぁ、思い出せるのは、小学校4年生かな。
全身白、胸に「よしい」って名前の付いた体育着に、サッカーソックス上まで上げて、黒のプーマのサッカートレーニングシューズを履いて走る俺。
マラソン大会。だんとつぶっちぎりで1位だったとき、父はスーツ姿で仕事前に見に来てた。その後、父さんがすげー嬉しそうだったことを鮮明に覚えてる。
母「お父さん、ああ、いいもん見せてもらった!って気合い入れて仕事に行ったよ。」と教えてくれた。
「ああ、俺の頑張りで父さんがあんなに気分よくしてくれるんだ。」って思った。
そうやって俺が頑張りをみせれば、認めてもらえる。
それは、父さんの力にもなるんだって知ったんだと思う。
我が家は優秀賞制度なのだ。
頑張りと結果に見合った!?おこずかいをもらう。その賞のほとんど、いや、きっと全部だ。それらは、運動会とかマラソン大会とか連合陸上とか水泳とかスポーツイベント系だ。
父さんが嬉しそうに渡す優秀賞は、そのマラソンのときが一番印象強い気がする。
そして決定的なのが、母の一言。
母はなにやらリビングでテレビをつけっぱなしにして、洋裁に没頭中だったような気がする。幼いながらにも俺は母に聞く。
「運動会の徒競走で一等賞を獲るのと、テストで100点を取るのとどっちがえらい?」
「決まってるでしょう!一等賞だよ。」と母は即答。
「そっかぁ。(ああ、やっぱりそうなんだぁ。だってそのほうが嬉しいもんなぁ。)」心の底から納得する。
おそらく、これが俺の人生を決定的にした。
結果、小学校の運動会1年生から6年生までの徒競走、最終レースですべて1位。常に学年別リレーの選手にもなり、町内対抗リレーの選手としても走り、とにかく走りまくってたんだ。
運動会の前日、母は決まってこう言う。
「ママさぁ、青のリボンが欲しいなぁ・・・(笑)」
(一等賞にはなぜか大体、輪ゴムの付いた青のリボンがもらえるのだ。)
そして俺は決まって、走るのが速いJINとかMIKAMIとかGUNちゃんとかの名前をだして、「そんなのわかんないよ!」と母の重たいプレッシャーの一言を跳ね返そうとする。
そして俺の母は確実にゴール地点を陣取り、カメラを構える。時にはカメラとビデオの二刀流だ。そして毎回、ゴールの決定的瞬間を抑えている。ので我が家は、綺麗に、俺の偉業ともいえる過去の栄光が証拠として残っている。
そして、運動会日曜日の夜は、母の撮影したビデオを見るのがお決まりだ。母は、俺の走っている映像を何度も何度も繰り返す。これでもか?これでもか?っていう程。さらに、決まって俺が一番にゴールした後は、カメラのスイッチを切らないまま、ぶんぶん振り回す。その映像を見てるこっちが酔いそうになる。
とにかく、俺の母は年甲斐にもなく、はしゃぐのだ。
でも、それがすごく嬉しくて、こっ恥ずかしいかったりする。
中学受験をさせようと両親は思っていたらしい。
が俺は小学校六年生。
「僕は今サッカーがしたいから、塾へいかなくてもいい?」
って言ったらしい。12歳の進路自己決断だ。我ながらちょっとすごいと思う。
でも、実際、言ったような、言ってないような・・・。
きっかけは、きっと日韓交流試合で韓国へ行ったことだろう。
親元を離れて海外旅行。
今思うとこれが何より外に目が向くきっかけだったんだろう。
小学校6年生のあの時、覚えたいくつかの韓国語を今でも忘れない。「こんにちは」、「ありがとう」、「かわいい」、「ぶさいく」。それから空港から付き纏う韓国の匂い、試合会場の学校、日の丸の入った水色のユニフォームに背番号「3」初めての一桁を手にする瞬間、グランド、そのグランドで高く上がったボール、目の前がかすむほどの暑さ、外人との接触、ハーフタイムの疲れ、言葉の通じない相手との会話、焼肉、ロッテワールドどれもはっきり覚えてる。
区の選抜にも選ばれて、ますますサッカー詰めの生活だ。
選抜にもランクがたくさんある。徐々に上へ向かい。
仙台へ。3月の雪の中、お湯を足にかけながら試合をする。球を蹴るごとに足に痛みが走る。
そして中学に入り、サッカーをやめる。
バスケ部にも入ってみる。
が結局、監督から家に電話がかかってきて、復帰する。
「一緒にブラジルへ行かないか?」みたいな事を言われたような気がする。それも大して気にも留めないでいたが・・・。
実際、本当にブラジルまで行き、サンパウロFCのジュニアユースと、パロメイラスのジュニアユースと試合をしたりもする。とにかく、一ヶ月の間、サッカーのみ。休み時間なのに気がつくとサッカーをしてしまう。こうなるとサッカー馬鹿だ。
ブラジルの近い空、アイルトンセナの墓、落書きの激しい怖い地下鉄、寮のうまくない飯、毎朝出るココア、わざと振って炭酸を抜いた甘ったるいグアラナジュース、膝の熱治療、サイババみたいなアフロヘアーの奴、ブラジル体操、いくつかのポルトガル語、檻のついたサッカー場、試合中の厳しい罵声、日本語で文句を言い返して日系の子に後で誤ったりしたこと、はだしでサッカーをする子供達、やたらうまい腹の出たおっさん達、本当に忘れないもんだ。
とにかく新鮮で、とにかく必死になってた気がする。
今にないほどの集中力で。
いつだったか、母に聞いた。
「しゅうちゅう力ってなぁに?」
母はこう答えた。
「徒競走で、スタート地点に立つでしょ?そこでよーい、どん!!その瞬間だよ。」
「ああぁ、そっかぁ、そういうことかぁ」
自分の母ながらなんてすばらしい説明なんだと感心するほど、説得力がある。
語学学校で我を忘れえるほど、熱くなる。本気であの頃のように集中する。周りの声援が聞こえないほど。DREAM JAPANって名前でワールドカップの盛り上がる中、俺はそのDREAM JAPANで日本代表気分だ。結果、優勝。卒業式には舞台でトルフィーをもらう。
最近、またサッカーに熱くなる。
今はそれが楽しみだ。
果てしなく忙しく、毎日が課題。
プレゼン、レポート、小問題提出、グループ課題、人間関係の問題とかです。
疲れます。
昨日は24時間、その前の週は30時間無睡なんて生活。
でも寝る時間を削るくらいの生活。
充実してるっていうんだろうなぁ。
何人かに写真を送る。皆返事は一緒。
「いい顔してるなぁ。」
バスの窓に写る俺はイマイチいい顔してるようには見えないなぁ・・。
実際はどうなんだろう。
でも俺、結構さっぱりした。
父さんと話して、やっぱり働きたいんだ、自分って思うし。
ただそれでも、これがしたいってのがはっきり見えない。想像もできない。
きっと、働いて知ることなのかもしれないなぁって思ったりもする。
でもこうしていっぱいいっぱいやってる生活も限りなく、重要な時だったりもするんだと思う。
無駄な過ごし方は絶対にしてない。
今は、「営業がしたい。」って漠然とした気持ちひとつ。
これがもっと具体的にはっきり見えたそのとき、俺はもう考えることもなく、スパッとここを切り上げて、進むんだろう。
そう思う。
オレのやる気はまだまだ健在だ!!
つまりは、MOTIVATION。
やる気配布。
俺は幼いながらも知っていた。
そうだなぁ、思い出せるのは、小学校4年生かな。
全身白、胸に「よしい」って名前の付いた体育着に、サッカーソックス上まで上げて、黒のプーマのサッカートレーニングシューズを履いて走る俺。
マラソン大会。だんとつぶっちぎりで1位だったとき、父はスーツ姿で仕事前に見に来てた。その後、父さんがすげー嬉しそうだったことを鮮明に覚えてる。
母「お父さん、ああ、いいもん見せてもらった!って気合い入れて仕事に行ったよ。」と教えてくれた。
「ああ、俺の頑張りで父さんがあんなに気分よくしてくれるんだ。」って思った。
そうやって俺が頑張りをみせれば、認めてもらえる。
それは、父さんの力にもなるんだって知ったんだと思う。
我が家は優秀賞制度なのだ。
頑張りと結果に見合った!?おこずかいをもらう。その賞のほとんど、いや、きっと全部だ。それらは、運動会とかマラソン大会とか連合陸上とか水泳とかスポーツイベント系だ。
父さんが嬉しそうに渡す優秀賞は、そのマラソンのときが一番印象強い気がする。
そして決定的なのが、母の一言。
母はなにやらリビングでテレビをつけっぱなしにして、洋裁に没頭中だったような気がする。幼いながらにも俺は母に聞く。
「運動会の徒競走で一等賞を獲るのと、テストで100点を取るのとどっちがえらい?」
「決まってるでしょう!一等賞だよ。」と母は即答。
「そっかぁ。(ああ、やっぱりそうなんだぁ。だってそのほうが嬉しいもんなぁ。)」心の底から納得する。
おそらく、これが俺の人生を決定的にした。
結果、小学校の運動会1年生から6年生までの徒競走、最終レースですべて1位。常に学年別リレーの選手にもなり、町内対抗リレーの選手としても走り、とにかく走りまくってたんだ。
運動会の前日、母は決まってこう言う。
「ママさぁ、青のリボンが欲しいなぁ・・・(笑)」
(一等賞にはなぜか大体、輪ゴムの付いた青のリボンがもらえるのだ。)
そして俺は決まって、走るのが速いJINとかMIKAMIとかGUNちゃんとかの名前をだして、「そんなのわかんないよ!」と母の重たいプレッシャーの一言を跳ね返そうとする。
そして俺の母は確実にゴール地点を陣取り、カメラを構える。時にはカメラとビデオの二刀流だ。そして毎回、ゴールの決定的瞬間を抑えている。ので我が家は、綺麗に、俺の偉業ともいえる過去の栄光が証拠として残っている。
そして、運動会日曜日の夜は、母の撮影したビデオを見るのがお決まりだ。母は、俺の走っている映像を何度も何度も繰り返す。これでもか?これでもか?っていう程。さらに、決まって俺が一番にゴールした後は、カメラのスイッチを切らないまま、ぶんぶん振り回す。その映像を見てるこっちが酔いそうになる。
とにかく、俺の母は年甲斐にもなく、はしゃぐのだ。
でも、それがすごく嬉しくて、こっ恥ずかしいかったりする。
中学受験をさせようと両親は思っていたらしい。
が俺は小学校六年生。
「僕は今サッカーがしたいから、塾へいかなくてもいい?」
って言ったらしい。12歳の進路自己決断だ。我ながらちょっとすごいと思う。
でも、実際、言ったような、言ってないような・・・。
きっかけは、きっと日韓交流試合で韓国へ行ったことだろう。
親元を離れて海外旅行。
今思うとこれが何より外に目が向くきっかけだったんだろう。
小学校6年生のあの時、覚えたいくつかの韓国語を今でも忘れない。「こんにちは」、「ありがとう」、「かわいい」、「ぶさいく」。それから空港から付き纏う韓国の匂い、試合会場の学校、日の丸の入った水色のユニフォームに背番号「3」初めての一桁を手にする瞬間、グランド、そのグランドで高く上がったボール、目の前がかすむほどの暑さ、外人との接触、ハーフタイムの疲れ、言葉の通じない相手との会話、焼肉、ロッテワールドどれもはっきり覚えてる。
区の選抜にも選ばれて、ますますサッカー詰めの生活だ。
選抜にもランクがたくさんある。徐々に上へ向かい。
仙台へ。3月の雪の中、お湯を足にかけながら試合をする。球を蹴るごとに足に痛みが走る。
そして中学に入り、サッカーをやめる。
バスケ部にも入ってみる。
が結局、監督から家に電話がかかってきて、復帰する。
「一緒にブラジルへ行かないか?」みたいな事を言われたような気がする。それも大して気にも留めないでいたが・・・。
実際、本当にブラジルまで行き、サンパウロFCのジュニアユースと、パロメイラスのジュニアユースと試合をしたりもする。とにかく、一ヶ月の間、サッカーのみ。休み時間なのに気がつくとサッカーをしてしまう。こうなるとサッカー馬鹿だ。
ブラジルの近い空、アイルトンセナの墓、落書きの激しい怖い地下鉄、寮のうまくない飯、毎朝出るココア、わざと振って炭酸を抜いた甘ったるいグアラナジュース、膝の熱治療、サイババみたいなアフロヘアーの奴、ブラジル体操、いくつかのポルトガル語、檻のついたサッカー場、試合中の厳しい罵声、日本語で文句を言い返して日系の子に後で誤ったりしたこと、はだしでサッカーをする子供達、やたらうまい腹の出たおっさん達、本当に忘れないもんだ。
とにかく新鮮で、とにかく必死になってた気がする。
今にないほどの集中力で。
いつだったか、母に聞いた。
「しゅうちゅう力ってなぁに?」
母はこう答えた。
「徒競走で、スタート地点に立つでしょ?そこでよーい、どん!!その瞬間だよ。」
「ああぁ、そっかぁ、そういうことかぁ」
自分の母ながらなんてすばらしい説明なんだと感心するほど、説得力がある。
語学学校で我を忘れえるほど、熱くなる。本気であの頃のように集中する。周りの声援が聞こえないほど。DREAM JAPANって名前でワールドカップの盛り上がる中、俺はそのDREAM JAPANで日本代表気分だ。結果、優勝。卒業式には舞台でトルフィーをもらう。
最近、またサッカーに熱くなる。
今はそれが楽しみだ。
果てしなく忙しく、毎日が課題。
プレゼン、レポート、小問題提出、グループ課題、人間関係の問題とかです。
疲れます。
昨日は24時間、その前の週は30時間無睡なんて生活。
でも寝る時間を削るくらいの生活。
充実してるっていうんだろうなぁ。
何人かに写真を送る。皆返事は一緒。
「いい顔してるなぁ。」
バスの窓に写る俺はイマイチいい顔してるようには見えないなぁ・・。
実際はどうなんだろう。
でも俺、結構さっぱりした。
父さんと話して、やっぱり働きたいんだ、自分って思うし。
ただそれでも、これがしたいってのがはっきり見えない。想像もできない。
きっと、働いて知ることなのかもしれないなぁって思ったりもする。
でもこうしていっぱいいっぱいやってる生活も限りなく、重要な時だったりもするんだと思う。
無駄な過ごし方は絶対にしてない。
今は、「営業がしたい。」って漠然とした気持ちひとつ。
これがもっと具体的にはっきり見えたそのとき、俺はもう考えることもなく、スパッとここを切り上げて、進むんだろう。
そう思う。
オレのやる気はまだまだ健在だ!!
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